ただのもうそう。

メッセンジャーでオンラインの緑がついてるのを見ると、なんだか嬉しい。

 

と思ってついついいつもみてしまう。

 

 

わたしのこと嫌いだったら

きもー!ってなりそうだけど

現にわたしはキモいからいいのだ笑

事実の方が受け入れやすい笑

 

 

あと、全然違うけど

今日、昨日の話してもなんもならない。

から、

明日のためになる事を考えたらいいなーとやっと気づいた。

 

でも、未来も過去も結局現在の気持ちの在り方でどうにでも変わってしまうから、

今を楽しむ、みんなによく言われたけど

なんとなーく、今日ふわっと思った。

 

今の気持ちを楽しむ。楽しむ。楽しむ。×∞ 

 

キモいって思われてるかなーとかの前に

わたしのこと覚えてるのかなー笑

ていうか、今度4月から展示会任されてやるんだよー!遊びに来てねー!って言いたい。

 

 

見つけたこと

 

わたしどうしてもどうしても寂しくなってしまう。

なんでなのだ!

なんで寂しい、って事を選択しちゃうんだろうと

考えて

 

精神構造 寂しい

 

で検索。

 

そしたら

脳って痛みを感じる部分と、寂しい気持ちを感じる部分っておなじという事を知る。

 

もしかしたらなんだけど。

 

体のどこかが無意識に痛いのかもしれない。

だけど、体は気づいてもらえないから

わたしに

「寂しい」という感情で訴えてきてるのかもしれない。

 

痛いことに気づいて、寂しいよ。って。

 

なんかそれを聞いて、体大事にしよう。って思った。あと、わたしの体今どうなってるかわからないから知ろう、って思った。

 

検査行こうか。

ほっといてごめんね。

すっぽんぽんで寝て、お腹冷やしてたのかな。

合わない靴を履かせてごめんね。

体重も増やしすぎてごめんね。

足や、腰に負担かかってるよね。

最近まともなもの作ってあげなくてごめんね。

栄養偏ってたね。

もっと大事にしてあげなきゃね。

 

寂しい気持ちは

どこかが痛い。

それは体なのかもしれないし

ほんとにこころ、と呼ばれるとこなのかもしれない

でも、

寂しい気持ちは誰かのものではなくて

ほんとに自分の中で起きてることだから

誰かや何かで埋めるとかできないんだね。

 

 

で、やっぱりなんだけど。

子供は叩いたらいかん。

転ぶとか遊んでケガはしかたないけど

親が不安の種を蒔いたらだめだ。

教訓になることもあるけど、小さい頃は多くを判断なんて中々できないから

 

なんで叩かれたのか、

なんで痛いのか見つける理由は、その時知ってる事

すき、きらい、わからない

くらいの中からじゃないと選べない。

 

わからないってこわい。私は特に。

一生懸命考えるけど、わからないから

間違えた答えを選択してそれにずっと苦しめられる

 

かもしれないよね。

 

私の中で

(叩く)=痛い=大事ではない=嫌い=不安

という方程式ができてしまっていたから

 

もしかしたら体調が良くないときほど

「嫌わないで」って

不安になって周りの人に攻撃的だったかもしれない

 

でも、痛みを感じた時にひとりではなくて

誰かが抱きしめてくれたり、撫でてくれたり

大丈夫だよ、って一緒にいてくれたなら

 

うるさい、ばしーん!とかではなくて。

 

痛みや、不安を感じる度に、叩かれたり、痛い思いをして怒った親の顔や言われた事や、怖い態度がきっと潜在的に思い出されて「嫌われたくない。」と

小さな自分が震えてしまう。

でもわたしはもう大人だから、その不安を隠そうとして嘘をついたり、無視したり、やり過ごそうとする。

そんな自分を知ってるから、結局周りに対してもそう思ってしまうし、どんどん自分を嫌いになる理由を増やし続けて、

こんなわたしは好かれるわけない、ととんでもない事やってみたり、とんでもない人と付き合ってみたり、自分が求めてることとは違うことをやって、どんどん自分をいじめ続ける。

そうなるとどうなる?

 

自分だったものが、よくわかんなくなっちゃう。

 

で、よくわからない不安に追われる日々を過ごすと。

 

そういう癖がついちゃうから、

親は子供が「親の言葉を理解するまで」は叩いちゃダメだと思うのだ。

 

脱線したけど、

わたしはもしかしたら体調が良くないのかもしれないから、病院に行こうと思うし、

もっと体のケアをしてあげようと思う。

 

人にするように、自分にも愛を。

 

 

tokyo

 

に来るとほんとに色んな情報が嫌でも入ってくる。

 

生き残り方なのか

在り方なのかわからないけど、

 

 

お金を稼ぐ、

社会全体に価値を生み出すってすごい事だよなあ。

 

 

わたしのやってることは

誰かのためになってるのだろうか。

東京に来ると不安になる。

 

 

相対性理論じゃないけど

時間の通りがまったく違うから

きっと、わたしは沖縄に馴れてしまったんだなあ。

 

 

なにか、少しでもいいから

誰かが喜んだ姿をみたいなあ。

家族とは。

 

わたし結婚したい。

と思ってた。

ひとりで生きてくのは本当に不安だと思ってたし。

30までにお嫁にいくんだと、そういうものなのかなあって思ってたし。

 

 

でも。

死ぬこと以外の不安はなかったということがわかって

わたしが持ってた色んな不安とか迷いはかなり減った。

それでも結婚したいなあと思うのは

多分、自分の心身をなりふり構わず使い尽くすところが欲しいんだろうなと。

 

なんとなく、ではなくて。

だからとても相手選びが慎重になってしまうんだなあ笑

 

一生をかけて尽くしたい、と思える相手か

相手に対してわたしはプロになれるか

これは別に家事のスキルがあるというより、

相手の意見に耳を傾けて、理解できるまで

続けられるか、ということ。

いつでも、なんでも、大体分かり合える

間違っていても、許せる、

そういう関係を作っていけるかどうかってこと

 

その相手には正直

お家柄とか、お金とか、見た目のカッコよさとかは

求めていない。

ただ、許容範囲が似ていてほしいなと思う。

 

こんなことを書くと

自分の両親のことを思い出してしまう。

何をとっても子供の為に、と働いてくれた両親だった。

祖父母のことも思い出す。

自分の世界観以外、受けいれないふたりだった。

不安の中でずっと生きてきたんだろうな、と思う

子供の為にも、自分の正しさを曲げなかった。

 

わたしは、いつも

うわべで感謝、とか言ってカッコつけてた。

いい人のフリしとけばいつか本当にいい人になるんだろうな、と思ってたから。

どうにか偽らなければ生きれない、と思ってた私に感謝とかはきっとあんまりなかったと思う。

 

恐怖はあったけど。

 

でも、わたしは最近自分を虐めるのを徐々にやめている。

そうするとどうだろ、なんもなくっても

勝手にしあわせな気持ちになる。

しあわせな気持ちっていうのは、やっぱり温かい。

 

誰から奪ったわけでもないぬくもりがあるの。

 

そうなるとね、ぜんぶにではないけど

やさしい気持ちに、なれる。

 

今が過去を作ってる。

過去が今を作ってる。

どっちに、捉えても結局過去は過去で

今はいま。

 

そんな素敵な今を選択し続けてるのは今のわたし。

そしてわたしは好きな人と深く狭く関わっていく方が得意だし、好き。

もちろん、表面的な対応もせざるを得ない場面はあるけども…

だから、もっと楽しく生きてく為に結婚したいなあ。

 

だから、一途に、捧げられる人が欲しいなあ。

 

閃き

 

時間って丁寧に使ったり

使ってもらったりすれば

無駄どころかとてもしあわせなんだねえ

 

そして急がない。

急ぐと自分のペースでしか動きたくなくなる。

そうするといらいらする。

 

だから急がない。

それはのろのろやるってことではなくて

焦らないってことなのかも。

焦ると不安だったり、不満だったり

逆に余計なものばかり見えてしまって大変笑

 

今日那覇でサブレを買って、包んでいただいたのだけど、

今まで待たされた時間の中で一番すてきな待ち時間だった。

 

 

不安になると

 

何か食べたり

良からぬこと考えたり

余計に不安になる事をしてしまうようです笑

 

 

だから必然的に

 

不安な行動を取ってくる人を避けようとするのか

でも勝手に不安になるの自分なんだけどね。

 

自分にとって余計なことは

自分にとって大事なことを見失わせるのだから

自分でわけわかめにしてるのかなあ。

 

 

だけどわたしはたまには

あたりめをぼーっとしながら食べたいのです。

そんでもって、考えても仕方がないことをひたすら考えたいのです。