からまわり。

 

 

私の、口をついてでてくるものは

基本的に

反応が欲しくって出すものがたくさんある。

 

 

 

 

だから

 

 

 

 

言いたい事を言ったつもりでも

相手からの反応がないと

放った言葉や想いは

一瞬で錆びてしまう

 

 

 

 

 

言葉はわたしにとってはとても大事なものだ。

 

 

 

 

だから

たまに

きたない言い方をしてしまった瞬間に

頭の後ろから頚椎にかけて

ざらついたような

嫌な感覚がべたついてくる。

 

 

 

 

それはいいとして

 

 

 

 

反応を、もらえない言葉は

死んでいるのとおんなじで

特に、あまり直感で生まれたままを話さない

わたしにとっては

言葉は自分の盾だ。

だから

言った言葉に対して

 

 

さして。

 

 

といったような対応はこの身を簡単に貫いてくる。

 

 

 

だから

正直安心できない場所では口数は減る。

 

 

 

何も言いたくない、というのが正しい。

だって

あたかも

「言いたい事はわかる」

「同じ感覚を持っている」

「大したことはない」

押さえ付けられるのにいい加減、辟易してきたし

違う人間のまだ何も発していない所から何が

わかるんだ、というシンプルな反抗心。

わかるよ、と自分に取り込みたいだけだろうに。

似た感じはあっても理解できるはず無い。

 

「わからないけど、

今わかりたくって、色々思いを巡らせているよ。」

と言われるのが一番誠実に聞こえてしまう。

 

 

 

 

それは容易に傷つきたがる自分を自覚してきたからこそ

よほど心が置けないところでなければ、と身構える

 

 

 

 

言葉は感情だし、感覚だと思う。

人格って言う方が間違いはないのかなあ。

態度は人によって変わると思うけど(対応なので)

言葉はそこまで変わらないと思ってる。

 

 

 

 

小説をたまに読むと

よく感じるのが

言葉は自分の中の思い出と大きく関わりがある。

 

 

 

 

恋している、と一息に言っても

物語の主人公の恋に自分が現実にしてきた恋を少なからず重ねてしまうはずだ。

それはもはや

フィクションではないよなあ。

だからこそ、泣けたり泣けなかったり。

 

 

 

 

小さい頃どれだけ周りに話しかけられたとか、

どれだけ本を読んだかとか

どんな経験をしたかとか

どんな教育、思想の元で生きたかで

言葉の意味が遥かに違う事を身に染みてわかる事があった。

 

 

 

 

 

だから全てを1から

自分だけの感覚で生きているひとはいない。

脱線するけど

人語を話さないで育ったら話はきっと別なんだろうなあ。

 

 

 

 

そういう意味でいえば

言葉は呪いなのかもしれない。

言葉は記憶で

継承されたDNAで

一番理解できないものを何とか文字にしたもので

わたしにとってはこころっていう部分。

 

 

 

 

言葉を交わさずに

感覚で恋ができるのなら

それはきっと運命だと思う。

それでいえば

私はきっと一度は両想いになれたと思ってる。

そう自惚れてもいい一瞬はあった。

ただなぜそう思えたかは

やはり言葉があったからなんだよね。

 

 

 

 

 

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