感覚を証明せよ、とのこと。

 

よくわからないけど

昔から

良いもの。がよくわかった。

 

 

それはパッケージとか

中身とかではなくて

 

 

なんとなく、いいもの。

 

 

大抵のそれらは

よっぽどの事がない限りは

表によく出てきて、コラボレーションや改定されながら長くブランドを保ってきている。

 

 

 

わたしのそれはただの感覚。

何かに裏打ちされたくない、

できない

ものだったはずなんだけど。

 

 

 

最近はその

わたしの感覚を証明せよ、という仕事に就いているものだから。

非常に苦しい。

 

 

 

感覚は感覚だし

言葉は言葉

そのままを受け入れてきてしまったが故に

自分の感覚に対してだけは

なぜ?と思った事がなかった。

 

 

 

時折勝手に話している時があるけど

頭なんか追いつかなくて

ただ、そのまま話してしまってる。

 

 

 

それはなかなか怖い事なんだけど

あんまり覚えてなかったりするからか、何かを失った気にはならない。

 

 

 

ただ理由はわからない。

いいな、とおもってること

いやだ、とおもってること

にはどんな違いがあるんだろうか。

 

 

 

感覚を証明するには何が必要なのさ。