愛は「ある」ということ
真栄田岬の前に車停めて
親に電話したらお父さんがでた。
わたしは現状を話して
もう東京に戻りたい、と泣いたんだけど
おまえが欲しいものは「在る」って言われた
わたしは愛が欲しいって言ったんだけど
ない前提だから、ある、って言われて?だった。
父曰く、
なにかが人を生かすとしたら
それは情熱とかやる気とかいうけど
なにかとか誰かに対する愛がそうなんじゃないかっていった。
父の口から愛なんて出てきたのは、生まれてこの方初めてだったから、ポカーンだった。
親が生きてるのは子供を愛してるからだ
っていう。
自分の事はもう大抵やっちゃったもん、
でも、いまおれが死んじゃったらおまえも死んじゃうだろって。
何かあったときにきもちだけでも寄り添える何かや誰かがいるから人はきっと生ききれる。
んでもって、わたしがなにより欲しいのは親からの愛だし。
あとはそうだなあ、おまえが欲しいときにそれをあげられるようにおれとお母さんは生きてるつもりだ、って言ってた。
それっていうのはたぶん、親の愛ね。
うちはお金は無いけど、元からの土地を絶対守りたい。
それはもちろんご先祖さまから預かってきたからっていうのもあるけど、おまえが生まれた場所に、生きてきた場所に、ちゃんと本物の居場所を作って待っていたいからだ。おまえが家族を愛した記憶が残る場所にいつまでも戻れるようにして欲しいからだと言われた。
だから沖縄なんかで死ぬんじゃない。
ここにある愛情やお母さんのきもちや
おまえを待ってるひとを裏切らないでくれと
お父さんが。
お父さんは現実的で、たしかに毎日仏壇に手を合わせているけど、テレパシーとかオーラとかおばけとかそんなのは絶対に信じてないのに
なんでわたしが真栄田岬に車を停めた理由がわかったんだろう。
ひとはなんとなく、はー。もういっか。ってなる瞬間があるんだ、って今日よくわかった。
ほんと、ふと。はた、とそうなる時があるんだ。って。
で、その時はなんも後先は想像できない。
今はちゃんとお家にいます。
でもたしかに
ただ存在すること、っていうのが
愛なのかもしれないってお父さんと話して
なんとなくそう感じた。
ひとが生きてるってすごいことなんだよ。