凄まじきかな。

この間元お坊さんの友達と話してて

自分の事好きじゃない人を好きになるって苦行でしかない。

得にもならないし

徳を積むどころか

煩悩増えて心の負担がかかるだけでしょ

そんなに自分の事酷い扱いしてるならさっさとドナー登録して、臓器に負担かからない形で死んじゃいなよ。

って言われて、

 

たしかになー

と思ったんだけど、

その時に何を考えたかって

 

親の事なんだよなあ

 

ただこの期に及んで親を盾にしてるのがわかって笑ってしまった。

 

もっともっと楽しいこと、気持ちいいこと、美しいことがあるのを知ってるのにあえて苦しい方を選ぶのはどうしてなんだろうね。

そんなん、わかりきってる。

楽なんだよ。

苦しいほうが慣れてる。

なにもしなくていい。

きっと、永久に変わらないものの中にいる方が楽なんだ。

変化は怖いし、労力がえらくかかる。

だけどたぶんそれではわたしがよく口にする

「ほんと」にはたどり着けないと。

彼曰く

わたしの場合、家族が憎いとか嫌いとかじゃなくて

家族を愛しすぎていて、それが無意識の自己犠牲につながってるらしい。

 

おばあちゃんやお母さんがかわいそう、なのにわたしだけ良い思いをしてたら不平等だし、嫌われてしまう。って

わが家は家族なのに上下関係があり、敵対関係でもあり、さらにいえば平気で伴侶に死を望める人たちを見たら

嫌われたら、死ぬの方程式が出来上がってしまったし

なんやかんや、人が怖すぎるわたしは他人を信用できないし法で、世間体で守られた

家族

しか縋るコミュニティがなかったのかもしれない。

 

ただ冒頭の話に戻ると

なぜわたしを選んでくれない人を選ぶかっていうと

きっといつまでも綺麗なところだけ見せてられるからだと推察した。

取り繕わないわたし自身をわたしは好きになれないんだと思う。

そして私を選ばない人はわたしに踏み込んでこない。

見せたくないところを見ようとしない。

もちろん辛くなるのは目に見えてるし、相手だって距離をおかれてることには気づいてる。

から、距離をおかれる。

これまで何百回とおなじようなことを考えてきたけど、なにも変えてない。

そりゃ、変わらない。

わかりきってるのに、この思考に横槍をいれないわたしはわたしをどうしたいんだろうか。

 

でも

こう扱っても大丈夫だ。

って思ったとおりに扱ってるし、扱われるよね。

わかりやすいものです。

ほんとうに。