文字は芸術。

 

 

さっきFBで

わかって。

と一言だけ書いたけど

 

 

 

 

その前に何度も消したのよ

 

 

 

 

こんな事が言いたいわけじゃないって何度も思って

結局

 

 

 

 

わかって。

 

 

 

 

にまとまる。

 

 

 

 

わたしっていう人間を

その存在や

思考や

現実性を

わかってほしい。

 

 

 

 

ここに生きてるんだよってことを

わかってほしい。

 

 

 

 

意思を持って息をしてるんだよって

めんどくさとか

メンヘラとか言うのは

どうぞお好きに

 

 

 

わかってくれればなんでもいい。

 

 

 

 

正当化ズ

 

 

何か不安がある時って自分守ろうとして

攻撃的になるよね。

 

 

 

それは無視とか

とにかく触らないでとか

ケンケンとしたような態度とか

色々あるんだけども

 

 

 

 

 

わたしは隠し事が多い人間だけど

その隠し事が誰かに見つかった時に

相手を傷つけたら嫌だから隠してたりする

これ、正当化①

 

 

 

ほぼほぼ見つからないように隠してた事が

見つかった時

それは相手の

運か、

もしくは見つけたくって見つけに行った結果なのか

どっちでもいいけど

嫌われても

そうじゃなくっても

最近はもうなんでもいいかなって思う。

だって

その選択をしたのは私じゃなくて相手だから

これ正当化②

 

 

 

 

嫌いになりたくってなってる

好きになりたくってなってる

 

 

 

それだけ

 

 

 

だから

わたしの行動をいちいち見てあーじゃないこーじゃーないって言いたいひとは

多分わたしの事がそんなに

好きなわけじゃないと思う

 

 

 

友達だったら

大事なひとだったら

間違いは間違いだというべき

正しい方向に導いてあげるべき

とかいうけれど

 

 

 

最近おもうのは

 

 

 

大事なひとだったら

 

 

 

信じる

受け入れる

待つ

その人の行動に自分の感情を乗せない

わからなかったら聞く

 

 

 

だけなのかと思った

 

 

 

AIは間違わないけど

人間は間違うよ

選択を迷うよ

不安になるよ

一定ではないよ

 

 

 

だけど

不確定な想いを

信じたり

許したりできる

数字で証拠で埋め尽くされずに

ちゃんと隙間があるのが人間だと思う

 

 

 

 

隙間が人によって違う

埋め方も違う

埋めようとしないひともいる

 

 

 

でもそれでいいんだと思う

 

 

 

秩序って結局混沌がある所に生まれた言葉なわけだから

もとよりなんでもあり、がスタートなわけだし

 

 

 

 

わたしはほんとにしょうもない人間だよ

親がつけてくれた名前の意味通りの大それた人間にはまだまだまだなれそうにないし。

だけど

しょうもない人間だからこそ

許したり

受け入れたり

肯定したり

できるんだと思う

 

 

 

 

ひとは品定めなんかできない

だれもそうだ

すき、きらいだけ

 

 

 

 

わたしの行動をきらいなひとはきっと山ほどいるさ

わたしも今のわたしは好きではないさ

だけどさ

間違っても

腐っても

踏み外しても

ダサくっても

わたしのことを応援してくれるひとはいる

好きだといってくれるひとはいる

 

 

 

 

それで十分だよもう。

 

 

 

 

ちょっと不安になったから

色々頭の中で正当化してみて

自分で大丈夫だよ、と自分をよしよししてみた笑

 

 

 

 

 

 

対 誰か。

 

このブログは誰かに見ていて欲しくて

でも誰も見てないと思って書いてるつもり。

 

 

 

 

今日友達と話していて

役に立ちたいっていう気持ちがでてくると

多分自分の素の意見は出てこないなあって思った。

 

 

 

 

役に立つことが自分の評価を上げることに

繋がるって思っちゃうと

ほんとに相手を思って言ってるとは思えなくなった。

 

 

 

 

寄り添いたいのに

先に頭が働くのやだなあ。

でも考えちゃうんだよなあ。

 

 

 

 

幸せになって欲しいって思うけど

それはもはや相手のことを幸せじゃないって

言ってるようで

なんかそれは非常に尊大で傲慢で

わたし何様なんだ、とか。

 

 

 

 

 

ひとの話を聞く能力はどうやったらつくんだろうか。

 

知ってるけれども。

頭がおかしいんだということはわかってます。

 

 

 

 

 

でもでもさ。

 

 

 

 

 

好きって

あれがこうだからとか

何をもってるからとか

そんな、目に見えるものだけで判断できなくって

まるっとその人好きだから好きなんだと思う

 

 

 

 

 

そんなところも好き

他の人がやったら嫌かもだけど

あなただから好き

 

 

 

 

 

っていう一種盲目的な気持ちが

なんかいいな、とおもっちゃう。

 

 

 

 

 

世間一般的に

よく変わってるとか言われたりするけれど

それがよくもあり悪くもあって

だから

受け入れられる自分も時には出していかないと苦しいのも知ってる

だけど

変わってることは私の中ではとても

素敵なことで

もちろん同じ人はいないし

受け入れるのが大変な価値観もまだまだあるけど

 

 

 

 

 

それでも

好きって気持ちは

なにかを乗り越える時のパワーになったりするから

なんでもかんでも無理して好きになる必要はないけど

せめてナチュラルに好きになったものには

フルオープンでいれるようにしたいさ。

 

 

 

 

いわゆる

ゆうこの

う(受け入れる)

です。

 

 

 

 

 

最近出会う人たちのおかげで

キャパが広がってきたような気がするので

もっともっと

色んなことやものを愛せるようになったらいいなあ。

ほんとにすごいひとたちだ。

今日は自分の仕事や、生きることについて
とても考えさせられた1日でした。

 

 

 

 

最近のわたしはその人の

職業うんぬんよりも
やっぱり
その中で何をしたか
どう思ってきたのか
ってことがとてもきになる。

あとは瞳。

笑顔。

 

 

 

 

 

実績のないわたしは質問もふわっとしていて
努力をし続けてきたひとや、へこたれないで生きてきた方の前に行ってしまうとどうしても恥ずかしくなってしまう。

 

 

 

 

 

それはきっと続けることに価値があると思ってるから。
そして結果は続ければ出ると当たり前のように思ってる。
だから続かないわたしは本当に恥ずかしい。

 

 

 

一方で近頃は

 

 

 


「自分を守らないひと」によくお会いする事ができて
できるだけ自分の恥ずかしい所も出して
今の自分の位置を勝手に測ってたりする。

 

 

 

 

 

そうしてお会いした時々で、胸に迫る言葉は全く違くって、
それがとても良い刺激で
勝手にショックを受けるけど、出会えてお話を聞くことが本当に嬉しい。

 

 

 

 


ご縁が続くかどうかは意志の問題もあるけど、
出会えたっていう事実は運命なんだと思ったり。

 

 

 

 

 

只、ありがたいです、としかいえないし、

仕事となると自分のしょうもない過去がベースになってしまうから悔やまれる事もあるけど、それもわたしだよな。と

 

 

 

 

 

こうやって考える事が好きだし、
正直なところ失敗するなら、最初からやらないで傷つかない方を選ぶ癖がついているけど

情熱をわけて頂いて、失敗してもいいからやりたい事やろうって、思えました。

 

 

 

 

 

 

いないのとおなじ

 

わたしのちっぽけな世界で生きてる人は

家族

すきな人

何人かの大事な友達

nもさん及びわたしの先生

 

 

 

 

このくらい。

 

 

 

 

思い出せない

日常的に意識にのぼらない

そんな感じのひとは

きっと存在してない。

 

 

 

 

でも

きっとそれはみんなもそう。

 

 

 

 

親にとって

大好きな人たちにとって

わたしが生きてれば

そこにわたしはいるわけだから

 

 

 

 

忘れられないように

生きていけたらいいのにな、と思ってる

このブログとかFBとかTwitterもそういうものだと思ってる。

 

 

 

 

 

alexandros

RUNAWAYって曲に

 

 

 

一番になったって

二番になったって

結局最後はみんな消えてくんだ

僕が死んだって何も残らないから

生きているそのうちは死んでたまるか

 

 

 

 

ってあるんだけど

 

 

 

こんな気持ちで

 

 

 

生きてやる。と思った。

 

 

 

 

2ヶ月くらい前にほんとに

グッバイしたいと思ったけど

飯田橋エスカレーター上がってく時に

目の前のおにーさんのTシャツに

NEVER DIEって書いてあって

 

 

 

 

そうだよなあと思いながら土手を歩いたっけなあ。

 

 

 

 

 

明日がわたしの最後の日だとしたらって

なんかいも思ってみたりしたけど、

実感なんかないから

来るかわからない半年後一年後をただぼーっと見据えてみたり。

 

 

 

 

もし明日がわたしの最後の日だったら

 

会えないひとには電話とメールを打って

隠してきた事が露呈しないように色々処分して

最後まで自分の恋を貫きたいなあ

 

  

 

 

なんもなくてもいいから

一緒にいれるだけでいいんだよなあ。

 

 

 

 

 

でもさー、

もしこのままほんとに結婚をせずに

気持ちだけはただひとりのもので居続けたら

それって

なんか素敵かもとか、思ったりしちゃってる

親に孫を見せることはできないかもしれないけど「ほんとに何にもならない」とか怒られそうだけど

寂しがりの私は最期寂しいかもしれないけど

でもなんか、いいんじゃない。

それも。って思う。

 

 

 

 

 未完成で終わり、って私の史上最強に最低な別れ方をしたひとが言ってたけど

別にそれも悪くないかな。

拝啓 運命のひと様

立夏の候、貴方様におきましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。

 

 

 

 

とりあえず、明日の19時に

赤坂bizタワーのスタバにおりますので。

 

 

 

 

運命を装って足をお運びください。

 

 

 

 

どんなに作った運命でも、運命にしちゃいますので。

 

 

 

 

何かとご多忙と存じますが、何卒ご自愛ください。

 

 

 

 

かしこ

 

 

 

二〇一七年 五月 二十八日

 

運命のひと様

吉川裕子より