生欲a
生きたいと思うのは人間なら普通の事なのかもしれない。
ただ毎日の体の生体反応の繰り返しに経験値や刷り込みに基づいた思考が加わる。
わたしはそう思う。
思考が先か感情が先かは置いておいて。
落ち着いている時は思考できる、そういう前提があると思う。
感情が先行しすぎている時、それはよほど生命維持装置のバグが起きているのではないだろうか。
緊張や怒りや悲しみや動揺喜びに至るまで心拍数を上げ、呼吸を荒くし多くの場合、頭部に熱を加えていく。
それは身体的に決して恒常的ではないものだと言えるのはおろか、負担をかけているに他ならないシステムである。
ただ、こういった感情を
生きている
と揶揄する人が少なくないのもまた事実。
自分達が認識している
生
の多くの割合は共感でできているからだ。
だからこそ、無関心、感覚であることを
人でなし
と呼ぶのかもしれない。
一方で普通、とか正常とか、人間らしいという
表現が一切適用されない人を遠目ではみんな面白がるし批判して自らの正当性を証明する材料にしたりする。
滑稽な話だけれど、批判する対象がいなければ認められないと自分で自覚もないままやっているわけである。
結局相手の胸を借りて自分を生かそうとしているのだ。
これも生きる為の行動のひとつだと思うと
突破だが人間はなぜ生きようとするのだろうか、という疑問が浮いた。
この命はなんのために生きるのか?は個々人で考えればいいと思う。夢とか目標とかについては。
そうではなくて、
なんで人間という脳の発達した生物があれやこれや考えたり行動したり有無益な事を繰り返しながらも呼吸を続けるようにできているのか、という事である。
偶々という結論が至極真っ当ではあるんだけれども、もっと違う方向で考えてみたいなと思っている。
2021.1.3