AWARENESS
相手は私を好きか嫌いか。
の
物差しを放り投げた。
どうでもいいとは言えない。
そりゃあ人ですから、愛された方がよっぽど嬉しいし。
感情、特に目や声のトーンの見定めを今まであまり間違ったことはないけども。
それでも感情のカテゴリーは少なかったはず。
相手の感情は100%自分のリフレクターだと思ってたから、いらんことまで拾ってたかもしれない。
だから怖いことしか存在していなかった。
人間は、私以外の人は怖かった。
付き合っていた彼氏や家族のことも、わからなかったし。わかろうとしなかったし。
わかるはずはないんだけど。
でも、今誰かに嫌われたとして、こちらから特に相手に暴力をふるったり、暴言を吐いたり、無視したり、なにかしら危害を加えていない限り
相手がわたしを嫌いになるのは相手の問題で、わたしの責任ではないよな。
ならばだけど、存在してていい理由を周りの人間に託すのおかしいよなあ。
おかしいっていうか、つらくなっちゃうよね。
依存したり、人の顔色ばっかり見て事が進まなかったり。
あと、
ほしいよりもあげたいって思う方が楽だ。
相手から何かほしいと思っちゃうと無駄な時間を使いすぎて動けなくなる。
メールひとつでさえ、何週間も考えてしまう。
欲しい、という気持ちの根底には
私の事好きですか?っていう確認が込められてると思うから。
なかなか相手を受け入れる事ができないわたしは、欲しいという言葉を使って、相手が私を受け入れてくれるかどうかを確認してしまう。
けど、あげたいはもうなんていうか
好きとか愛してるとかを超えた、自分の強い望みみたいなのがあって、それって赤ちゃんじゃないけど、
笑ってる顔がみたい、って事なんだと思う。
笑ってる顔って腹の底から安心するから。
なんか、敵意0,他意0,陰謀0みたいな。
ちゃんと笑ってない人の顔ってよくわかるようにできてるから人間ってすごいよなぁとおもうけども。
なんかあげたい、って思った時にもうなんか自分が勝手に幸せになってるから、だから良いんだろうなぁって思う。
あと、目の前の相手の先のことを考え過ぎるのはやめようと思った。
その相手がどんな判断をしてその先の行動に移すかなんて、それこそこれっぽっちもわかるわけないんだし。
一緒にいるとき、相手に対してできる限りの事をしてあげたらもうその先はいいんだよ。
自分があれを言ってあげたらとか、してあげてたらとか、考えたらキリがないし。
そんなふうに思ってた。